Vol.1 スーパーのおばさんとなる
- 2009.08.02 Sunday
- 17:15
人間の境遇というものは、いつどこでどんな風に変わるか本当にわからない。
正しく人の世は無常であり、
ひとりの人間の生涯も常ならぬ有為転変の日々である。
私も又、運命の糸がどこでどのように折れ曲がったりカーブしたりしたか知らないが、
五十七才にして漂泊の人生に終止符を打ち、
四十年振りに生まれ故郷の町へ舞い戻って来た。
ふるさとは良いものだ。
幼い頃から朝に夕に慣れ親しんだ山や川やたんぼや商店街のたたずまいが、
相当に様変わりはしているけれど、
昔のままの懐かしさでそこにある。
それらを見ていると、
自分が長い年月女ひとりで人間の海を泳ぎ渡って来た
すれっからしであることをつかのま忘れ、
素直で無垢な少女の頃に返ったような気分になれる。
この懐かしい故郷の町に、
いつの間にやら出現していた大きなスーパーマーケットに雇用され、
かくて、キヨコは思ってもみなかったスーパーのおばさんへと変身を遂げた。
◇ ◇ ◇
その? 惣菜部にて
「明日は3時に仕事にかかります。皆さんよろしく」
惣菜部のチーフが眉も動かさずに平然と言う。
言われた部員達も顔色も変えず、
「はーい」と明るく答える。
私ひとりが「ぐっ」と息を呑み、
「ひょ、ひょ、ひょっとして、それ、よ、よ、夜中の三時?」と、どもる。
そう、夜中の三時なのだ。ひょっとしなくても。
総勢九名のおばちゃん達、
長年、一家の主婦として台所に立ち続けたおばちゃん達が、
豊富な経験と腕で作り出すお惣菜の数々は、
典型的なおふくろの味で、
今どきのハイカラ料理のバターやミルクや油の匂いにうんざりした人々に、
砂漠のオアシスの如きやすらぎを与えるらしく、
お弁当や鉢盛の注文がひきもきらない。
お弁当を三百個だのという注文が入れば、
夜中の三時から始めなければ間に合わないのは理の当然で、
しかも、こんなことがしょっちゅうあるから驚く者など誰もいはしない。
私ひとりがじたばたとうろたえ、
真空状態となった頭の中に、
三時、さんじ、夜中の三時という文字が点いたり消えたりするのである。
◇ ◇ ◇
家の軒端が三寸さがる丑三つ時の二時三十分。
一番新米の私は誰よりも早く出勤して店へ入り、
警備のシステムを解除して先輩たちがやって来るのを待っている。
二時三十分に出勤するために今朝は一時五十分に起きた。
自慢ではないが、宵っ張りの朝寝坊は親ゆずりで、
何が苦手と言って早起きほど苦手なものはない。
ちりんちりんと音は優しいが、
しつこくしつこく鳴り続ける目覚まし時計を
とんかちでぶん殴りたい衝動をやっと押さえて起きた。
半分眠りながら顔を洗い手さぐりで化粧をし、
おそらくは福笑いのようなご面相で出勤した。
厨房に入ると、ごはん炊きロボットがもうシャカシャカと米をといでいる。
ああ、私ばかりじゃない、あんたも早くから頑張っているのねと話しかけ、
この広い店内で動いているものといえば私達ふたりだけと思うと、
何だかご飯炊きロボットが他人じゃないような気がしてくる。
そうこうするうち、
次から次へと先輩達が出勤して来て厨房はいっぺんに活気づいた。
大きな4基の換気扇がゴウゴウとうなりを上げて回転し、
ずらりと並んだ大鍋がいっせいに真っ白な湯気を上げ始める。
作業を指示するチーフの声、答える声、調理器具のふれ合う音、
野菜を刻む包丁とまな板の音、油のはぜる音、
早朝の厨房はたちまち喧騒の渦の中へと巻き込まれていく。
あとはもう戦争だ。
何がどんなふうに進行しているのか、私にはまったくわからない。
わかるのは、この何が何だかわからない混沌の世界が
私の新しい職場だということと、
これからずっと、こうやって働いていくのだということだけである。
スーパーで働くということが、
これほどハードだとは正直意外だったがこうなったら乗りかかった船だ。
何とか無事に向こう岸に着けるよう、一生けんめい頑張ろう!
作 荒木紀代子 画 やまだしんご
〔庶民が創る ふだん着の 《《投稿専門誌》》 アルファ企画 Vol.21 より転載〕
〔庶民が創る ふだん着の 《《投稿専門誌》》 アルファ企画 Vol.21 より転載〕